2009年2月24日

子どもを花粉症にしないための9か条

[ 休むに似たり 日常 ]

人生初ノロにやられて2日間倒れていましたが復活。気のせいかノロ中ノロ後は花粉症が軽快。雨ふってるからだけな気もしますが。

モダシンさん経由で「子どもを花粉症にしないための9か条」というのを知りました。

子どもを花粉症にしないための9か条

この中で、▽生後早期にBCGを接種させる▽幼児期からヨーグルトなど乳酸菌飲食物を摂取させる▽小児期にはなるべく抗生物質を使わない▽猫、犬を家の中で飼育する▽早期に託児所などに預け、細菌感染の機会を増やす▽適度に不衛生な環境を維持する▽狭い家で、子だくさんの状態で育てる▽農家で育てる▽手や顔を洗う回数を少なくする--の9か条を紹介した。

清潔すぎるよくない! 適度に細菌に触れよう! って話ですね。一般論として、過剰な清潔はよくないんだろうな、と思うのですが(だからこの9か条の実践に異論はないのですが)、

谷口センター長は、「幼児期でアレルギー体質が決定するという仮説は正しいことが証明された。花粉症などのアレルギー性疾患は文明病であり、人間が物質文明を追求したために生じた免疫機能失調症だ」と指摘。

この短い記事のなかだけでは「証明された」とするに足るだけのデータが示されたようにはとても読めません。それに、この仮説が正しいとすると、60歳代でアレルギー体質のひとが30%もいるのは多すぎるのではないでしょうか...?

この話まじめに調べれば、ちゃんと根拠のあるデータがたどれるのかな。

投稿者 こじま : 2009年2月24日 12:10 | このエントリーを含むはてなブックマーク

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コメント

子だくさんと農家以外はあてはまる、ズボラなヨーグルト好きで猫を飼う我が家は、おれと娘がアレルギーなのでした。

こういうのって、そもそもの理屈やその根拠はともかく、こういうふうに粗雑かつキャッチーに要約した瞬間に、この9項目だけが独り歩きして暴力的な強制力みたいなものを獲得しがちなので、あまり好かないです。
ここに書いてあることを無自覚に吠える姑とか親戚とか眼に浮かびそうじゃない?

ま、過剰な清潔信仰へのカウンターなのはわかるし、アレルギーは文明病だっていうことにも同意はするんですけど、でもね。

投稿者 ながしま : 2009年2月24日 22:21

ながしまさま>

こういう「Nか条」みたいなのは正確さを期すと曖昧になってほとんどのひとに伝わらなくて、わかりやすくすると独り歩きしがちで、なかなか難しいですな。

あとは統計的には有意でも、3割のひとは該当しない、とかだと、ね。実感としては外れてる、って感じもするんですよね。

...でよく考えると、わたしはこの元記事の「証明された」って言及が猛烈にひっかかるのでした。「証明」って純粋な論理(数学含む)ではければ基本的に使えない(というのがいいすぎならば、使うのにかなりの注意が必要な)言葉なんですよね。そういえば疑似科学って「証明」って言葉使いたがる傾向がありますな。

おそらく、この谷口センター長というひとは「証明」って言葉は使ってないのじゃないかなあ、と思ったり。

投稿者 こじま : 2009年2月24日 23:41

なるほどセンター長は「証明」って言葉を使ってない可能性か!
それはありそう。科学者の発する語の厳密性を閑却して要約してしまうことって、いかにもありそうだものなあ。
そのあたり、科学系/理系のひとは、そうでない大多数のひとの脳内は彼らのそれほど事象の捉え方や客観視のレベルが厳密でないことを承知して、情報を発信してほしい、と思うこともよくあります。

いずれにせよ、この種の情報が「キャッチーである」ということは、ややこしい理屈や根拠を削り落として「結果だけ」を提示している、ということでもあって、受け手側に思考停止が許される(離乳食みたいな)。
しかもこの場合、現世利益というか効能が目指されているものだから、(それが発信される側では科学的根拠を持っていたとしても、それを受容する末端においては)宗教の「教え」と紙一重であって、ゆえに容易に暴力的な善意の行使に至りかねないと思うのです。そこが引っかかる。

つか、ただでさえ嬰児~幼児を持つ親たちは不安感に駆られているものだし、そこへ情報の過剰と輻輳と矛盾が作用して不安が増幅されているものだから、大事なことを伝えてるのは判るけどセンター長、もうちっと物の言い方に気を遣え。というのが反射的な気分だったかな。

投稿者 ながしま : 2009年2月25日 12:51

ながしまさま> ふむ。実際に子を持つ親だと、こういう話は、よりリアルに読み取れるのですね。

>そのあたり、科学系/理系のひとは、そうでない大多数のひとの脳内は
>彼らのそれほど事象の捉え方や客観視のレベルが厳密でないことを承知
>して、情報を発信してほしい、と思うこともよくあります。

なるほどね。

これはでも、いくつもの側面を考えなくてはいけなくて、実際には非常に難しいように思います。

厳密さを犠牲にするということは、何か特定の事柄フォーカスすることを意味しています。

このフォーカスすべき「特定の何か」の決定は、誰に伝えるかも考慮して決める必要があります。

誰につたえるか、が決まった時点で、その誰かに対する適切な粒度で表現しなくてはいけません。

ここまででもそうとう大変ですが、「誰に」のターゲットからはずれるひとに対しては、致命的に間違ったメッセージになるかもしれません。

「何を」でフォーカスされなかった、犠牲にされた厳密さに含まれるものについては、致命的に間違った情報を伝える虞がつねにあります。

というわけで、これはちと厳しい要求じゃないかねながしませんせい、と思うわけです。

とはいえ、今回の具体的な件について

>センター長、もうちっと物の言い方に気を遣え。

というのにはかなり同意。

投稿者 こじま : 2009年2月27日 12:44

 ガチガチ文系脳の人間からすると、ガチな理系のひとの言説は、「字義以上のことは意味しない」「一定の前提条件を満たした上で成立している」「その前提条件は論理的に自明だから敢えて強調しない」「使用する語の示す意味内容は厳密に決まっている」という特徴がある気がする。
 だけど文系脳(と、さしあたり呼ぶけど)の持ち主は、そこに過剰な「意味」とか「価値」とかを読みとってしまったり、「前提条件」をすっとばしてしまったり、「語義」の厳密性に気を払わなかったり、そもそも知らなかったりする。ていうか論理より感情で読んでしまったりする。
 要するに「文章/言葉を読む」際に、解釈の「ゆらぎ」の幅が大きいということなのかな。
 というあたりに起因するすれちがいが、ときどき生じる気がするんですよね。

 本来は理系的な言説は、より厳密で誤解の余地が生じないスタイルであるはずなのだけれど、「厳密で誤解が生じない」ことが書き手側で自明になっているから、ときどき、別フィールドの人間にとっては不親切なものになることがあると思うのですよ。

 だから、厳密性を犠牲にするというよりも、言説の効率性を犠牲にして、もっと親切に説明する。というほうが、当方の気分に近いです。
 まあ、そうは言っても、発言が勝手に要約されちゃったりするから、その意味では無茶な要求なのですがね。

 ただ、この件では「××すべし」という「説教」のスタイルになっていることが最大の問題で、それほど深い問題じゃあないとは思うんだけど。
 「こういうファクターがあるとアレルギーになりにくい」という疫学調査に基づく事実の提示にとどめておけばいいのに。

 例えば「農家で育てる」なんてあたりは、真に受けたひとには多大な決断や犠牲をともなうこと(家を引き払っちゃうとか)なのだけれど、「一般ウケ」を狙ったサービスっぽい(けどスベっている)匂いがするし、いろいろと問題のある物言いだと思うんですよね。

投稿者 ながしま : 2009年2月27日 13:29

ながしまさま> いやまあ、いくら気をつかっても誤解の余地は常にあるわけですが、

>だから、厳密性を犠牲にするというよりも、言説の効率性を犠牲にして、もっと
>親切に説明する。というほうが、当方の気分に近いです。

ということなんですな。誤解を減らすほうにより気をつかえ、ということですね。納得。

説教になってるスタイルの問題点、ってのはわたしはあまり気付いていませんでしたが、まあ確かにより悪い影響は出やすいかもしれませんね。

投稿者 こじま : 2009年3月 3日 12:45

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